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活殺自在塾は、日本武道における活法と殺法両方を伝授し、日本文化を世界に伝える塾です。

TEL. 0422-70-1831

(快整体術研究所代表電話共通)

〒181-0013 東京都三鷹市下連雀3−22−10榎本ビル302

 活殺自在の考え方

活殺自在の考え方

●武を真に理解するために

1.武は殺法だけにあらず

 武術というと、人を倒す技術ばかりと考える人が多いようですが、昔の武術で免許皆伝となるには、殺法としての武技だけでなく、人を活かすための技術である活法も必須でした。その両者が伝授されてはじめて皆伝となるわけですが、「活」も「殺」も心身に対する作用である以上、一面からだけの理解では不十分ということなのです。

  その根底には東洋思想である「陰陽論」があると思われ、まったく性質の異なる対照的な両者の存在の理解と、その関係を融合させるところに真理を求める、というところからの発想なのでしょう。

  武術がスポーツ化することにより、競技が重視され、本来の良さが失われてきていますが、本来の姿である「殺」と「活」の両面の存在を理解し、物事の表裏として考えることで、その本質を捉えることができます。そこには単なる技術的なハウツーだけでなく、両極の同時存在という矛盾を超えた次元のこととして理解するところが、武の持つ本質を得るきっかけになります。

2.身体を知ることで武技のアップ
 

 人の身体は時には強く、時には弱いものです。その強弱は人の身体とはどういうものかを知ることによって、より鮮明に理解できます。

 武技は相手の弱点を狙うものであり、もともと強いところ、強い状態の状況時を狙っても意味がありません。しかし、逆に弱いところ、弱い状態を作ったりすることで、同じ加減でもより効果的な技になります。

 形や基本の中には細かなこだわりがありますが、それは自分の身体の操作法を変化させるだけで質の違うパワーアップにつながります。また、武技としての意味を知ることで、相手の弱い部分を責めていることに気づかされたりと、形や基本を単なる動きといった捉え方をしているだけでは得られない発見があります。

 そこには身体の仕組みを理解することが前提ですが、骨格や筋肉といった見える身体だけでなく、東洋医学的な機能面に着目した見方も必要になります。ここで言う身体を知るとは、こういった医学の2大潮流の知識をいうのであり、それをベースとして武技の質をアップさせることが大切と考えます。
 

3.急所攻撃と当て身
 

 昔から武術には「急所」という考え方があり、具体的な攻撃方法も存在します。 その急所は、東洋医学でいう経穴(ツボ)と同じで、経絡や経穴の知識を武技と絡めて知ることは、そのまま武技の深化につながります。

 ところで、一般に急所は当て身で攻撃する、といったイメージがありますが、実は関節技でも押さえるべきポイントとして活用されることがあります。力任せに相手の身体を押さえつけようとするより、急所としても活用される経穴に対して刺激を加えたほうが、より効果的だからなのです。

 ただ、活殺いずれにも活用される経穴は、単にその場所を押すだけでは十分な効果は得られません。加減もさることながら、角度も大切で、この部分はそのまま武技にも活かされます。

 つまり、当て身の場合も関節技の際に押さえるポイントとして活用する場合も、それぞれの経穴に合った角度を理解した上で押すことが大切になります。身体を知り、「活」の領域を知ることが武技の質を変えるのです。
 

4.関節技と骨格調整

 柔術に代表される関節技ですが、空手道にもその技はあります。関節技でも経穴は活用されると説明しましたが、関節そのものの理解がなければ効果を発揮することは難しくなります。

 整体術では骨格調整も行ないますが、これは骨格の状態を知識だけでなく、手の感性でもそれを把握していることによって可能になります。武技の場合も同様で、関節を極めようといたずらに力を込めても、身体の構造を知識と感性で知らなければ簡単に外されてしまいます。

 もちろん、ある程度の力がなければ極めることはできませんが、前述の要素を有することで武技としての質も大きく向上します。

 実際、関節技の教授がなされる時、ちょっとした手の置き所や力の向きを変えるだけで、驚くほど効果が出ます。これは身体の構造上、力をかけられて弱い方向と強い方向を熟知した上で行なうからできることですが、整体術の骨格調整も同様の意識で行なわれます。行為として正常な位置に戻すのが整体術であり、不正な位置にするのが武技(関節技)なのです。

 そこに必要なことの一つが、関節の面と軸を知ることであり、同時に可動域の限界を手が感じられるかどうかです。あとは「活」の意識で行なうか、「殺」の意識で行なうかの違いだけです。

 一流の武術家は感性が豊かでなければなりませんが、同時にそれは優秀な癒し家にも必要な要素だったのです。


●活と殺は表裏の関係

 1.ケアができてはじめて武術家
 

 武術の稽古に限らず、身体を動かす場合には大なり小なりトラブルと背中合わせです。武術の場合は身体を壊すための動きを学ぶわけですから、ちょっとの油断が大きな問題につながる可能性があることを、常に念頭に置いておかなくてはなりません。

 そういう意識で稽古を行なう場合、そうそう大きなトラブルが発生しにくいものですが、絶対にないとは言い切れません。前述のように、これ武術の稽古に限ったことではありませんが、スポーツと異なり、武術の場合は人の身体を知っていることが前提でなければならないので、ある程度のトラブルには対応できるだけの知識と技術が必要です。

 これが活殺自在の「活」の部分ですが、本気で武術を志そうという場合、絶対に忘れてはならないことです。

 もちろん、どんな国にも法律がある以上、それに反する形で行なうことはできませんが、許される範囲内であれば行なえるだけのことを行なう、というのが現代における真の武術家と言えます。

 その際、特に身に付けておかなくてはならないことは、トラブルの程度の把握です。どのような対応するかは、その程度を正確に掴むことから始まりますが、整体術でいうところの診断の部分をしっかり身に付けておかなくてはならないのです。そして、状況によってはすぐに病院に搬送することも考えなければなりません。

 稽古中、よく見られる突き指なども、骨折の疑いがある場合は絶対に手を出してはいけませんが、その後の動きの悪さを回復させることは整体術で可能です。これは一例ですが、この場合、最初は骨折の可能性を判断しなければなりません。活法の一つとして、このようなところから段階的に学んでいくことになります。
 

2.毒と薬の関係
 

 毒と薬の関係というのは、そのまま活殺自在の構造と合致します。同じ物質でも、使い方によっては薬にも毒にもなりますが、人の身体に加える刺激も同様です。ある時は癒しの手になり、ある時は武技として人の身体を壊します。

 その違いは何かというと、何をしようとするのかという意思の部分と、それに従うところの具体的な行動・行為の点です。

 例えばある物質を薬として用いるならば、その分量や一緒に用いる物質の性質を考慮して組み合わせます。毒として用いる場合は、許容量を超えた分量を投与します。

 これを武技、あるいは手技療法に置き換えるならば、加える力の加減や回数を適正にコントロールされている場合は癒し=活法になり、過剰な力で強圧的に行なえば殺法となります。

 活殺自在というのは、技術的な部分に限れば、同じ人体に対するアプローチの違いによってまったく逆の結果を出す方法論ということになりますが、実はそのような相反する両極を同時に存在させることから醸し出される、陰陽論的な哲学でもあるのです。

 このような考え方と、具体的な技術論が融合したものが活殺自在の中にあり、これが独特の日本の文化の一つとして教授されるべきものなのです。
 

3.脱力は活殺いずれにも不可欠の要素
 

 これは技術論につながることですが、活殺の実践にはいずれも「脱力」という要素が必要になります。

 力の入れ方・抜き方、というのであれば分かるという人もいるかもしれませんが、最近は武術論の書籍がたくさん出ており、そこではこの「脱力」について述べているものも多いので、理解している人も多いと思います。

 実際、武技として身体を動かす時、変に力を込めて行なうより、「脱力」して行なったほうが威力が増すことは、武術の経験者であれば肌で感じていると思います。

 そしてこの意識は活法たる癒しにも必要なもので、施術時に手に力みがあれば相手の身体も固くなり、結局は刺激が深く浸透しません。それどころか、接触部位の反発から、揉み返しといったことにつながり、よけいな不快感を残してしまいます。

 ただ、癒しの際に言われる手の優しさとは、撫で擦るようなことを言うのではなく、しっかり刺激を内部に浸透させるための「脱力」から得られるものであり、圧自体はしっかりかけます。その際、相手が不要な緊張をしないように脱力するわけで、これが効果を出すための「見えない技」となります。

 このようなことは「同化の意識」という概念の中で説明されますが、これは中山師範の著書「活殺自在になる」の中でも解説されています。この意識は「活」にも「殺」にも必要であり、活殺自在塾でもその習得を目指します。


●文化として活殺自在を考える

 
1.武技を身体の仕組みから理解する
 

 武技の理解は、一部のケースは除きますが、身体の仕組みから説かれ、それを前提に行なわれることはありませんでした。まず、形から入り、そこから筋力を主体とするパワーアップ、スピードアップの意識によって武技の質が向上したと考えるケースが大半だったと思います。

 しかし、本当に武技を理解しようと思えば、それを行なう主体とそれを受ける客体であるところの人体の詳細を知らなければ、スポーツ感覚の武術であったり、単なる体操に終始します。

 武技のレベルは、先人が築いてきた技術が人体にとってどのように作用するのかを理解しているのか否かで大きく異なります。実際に攻撃している箇所は、単にポイントを取るためではなく、具体的な作用を促すための存在でなければならないのですが、試合が中心になれば、武技が単なる形だけのレベルに落ちてしまいます。武技本来の意味を知るということは、そのベースとして人体を知ることが必要であり、それを無くしては大成しないと言っても過言ではないでしょう。

 ただ、だからこそそのようなことを悪いことの道具として活用してはいけません。そこに文化としての立場を強調するのであり、活殺自在を標榜するからにはこの点はしっかり堅持しなければならないのです。

 
2.活殺の意識は陰陽論、弁証法に通じる
 

 これまでの説明の中に「陰陽論」という言葉が出てきましたが、これは東洋哲学の根本思想の一つです。ものごとには全て「陰」と「陽」というまったく性質が逆の存在があり、その両者が互いに影響しあってこの世のことは流れている、という思想です。

 同時に、その「陰」と「陽」は「太極」という真理から生まれ、またそれに統合されると考えます。武術の世界は宗教ではなく、崇拝すべき偶像は存在せず、リアルな世界を前提とするものですが、哲学は存在します。

 その根底が東洋の文化ですので東洋思想となりますが、活殺の意識は「陰陽論」そのものと言える構造を持っています。

 それは「活」と「殺」の対極性の存在と、その二つが融合することによってはじめて真の武が得られるといった考えであり、まさに陰陽論そのものです。そして、太極という相反する性の融合によって次の次元へと昇華する考え方は、武道・武術の世界で活殺自在という概念で具体化されています。

 この構造は、弁証法的な構造とも一致します。東洋思想に対して違和感を持つ人がいれば、哲学でいう弁証法的構造と理解しても良いでしょう。「正→反→合」といった構造は、相反するものの相互作用から、それを経て生じる新しい次元そのものです。

 武術の場合、武が表のためそれが「正」となりますが、その反対の概念である活法は「反」です。そして、それを融合し、より高みに昇華した存在が真の武というわけです。

 
3.武道・空手道が持つ文化性
 

 この構造を理解することは、武術のレベルアップだけにとどまらず、文化としての認識も高めることになります。この認識を持つ時、武道・武術に関する具体的な文化的領域が見えてきます。

 その中には歴史、社会との関わり(例えば法律など)、教育学としての見識、科学的領域(医学、生理学、物理学など)、哲学などがあり、道場経営を意識する場合は経営学なども入ってきます。

 武術は身体を動かすことがメインと考えている場合には難しく感じるかもしれませんが、真の理解を得ようとすれば、実はそこに隣接し、客観的立場からその存在を証明する、あるいはいろいろな向上のヒントを与えるような領域を無くしては、レベルアップは図れないのです。

 そこに中山師範が主張する武道・武術の文化性の意義があり、活殺自在塾ではその実現のためにこの考えを明確に打ち出すのです。

 個別の領域については、実際の講義や実技の中で触れることになりますが、活殺自在の意識を一つの学問・文化として捉えると、これまで見えなかったものが見えてくるようになります。

 
4.海外で求められる文化としての空手論
 

 これまで武道・武術を文化的な領域として発信することはごく一部の人がやっていましたが、この視点は大変重要なことであり、もっとたくさんの人が学び、日本の文化として広めていかなければなりません。

 そしてこれは日本から発信することが大切で、本当の武道・武術として理解してもらうためには、単なる肉体面だけの技術では足りないのです。

 活殺自在塾の具体的な受け皿となる千唐流直真塾の場合、これまで20ヶ国以上の外国人の方が稽古に訪れ(在籍期間の長短はありますが)、具体的な技術の裏付けとなる身体の構造や、武術にまつわる話に大変興味を持たれていました。中には、一旦帰国したものの、再度稽古する目的で再来日したケースもあります。

 また、中山師範が海外でオープンセミナーを行なった際の話ですが、参加者は知らない流派の技術に対する興味だけでなく、どの流派・武術にも共通する身体のことや武術の文化性にも多大な関心を持ったそうです。

 すでに競技としての部分は、海外勢が優勢な流派もありますし、日本以上にルールを研究し、そこで勝つための工夫もされています。ですから、日本はそれを伝えた本家、といった部分だけにあぐらをかくのではなく、これまで伝え切れていないところに目を向け、この点を今後の普及のポイントにしていくことが必要です。

 今や武道・武術・空手道は単に肉体面だけのことに留まらず、文化性といった「知」の部分にも範囲を拡大しなければならない状況なのです。


●生き方として活殺自在を考える

 
1.物事を両面から捕える
 

 これは武道・武術の哲学的側面の具体例になりますが、生き方論として活殺自在の考え方を活用することができます。

 活殺自在とは相反する事象の融合であり、そこから得られるものはそれまでよりも高い次元です。

 これを日常に置き換えるならば、いろいろな事象を一面からだけでなく、その対極も含め多面的に見ることが必要となります。そしてそこからは、これまでとは違った見え方・発想が出てくる期待も生まれます。

 普段の生活の中で行き詰まることも多々あるのが人生ですが、そのような時、真正面からだけ見るのではなく、反対のほうから眺めると打開策が見えることがあります。逆から眺めることで発想も逆になり、とれる方法も幅が広がる、というわけです。

 しかし、その前提としてはまず一つのことがきちんと身に付いていることが大切です。「一芸に通ずれば万芸に通ず」とか、「多芸は無芸」という言葉がありますが、まず一つの基本になる部分に軸足を置くことが大切です。そして、それをベースに物事を考える時は、軸がしっかりしている分、反対側から見た場合でも見方が崩れたり、曇ったりしません。

 活殺自在塾の場合、その軸足は武術です。そして、その判断に必要な知識やヒントを与えるのがそれに隣接する学問領域です。講座で学ぶのはそういった武術の世界の中でのことですが、この構造の理解を日常・人生へと広げれば、生きていくことに必要な学びとは何か、そしてそれをどう活かせば良いのか、という理解につながります。活殺自在というのは、武術の世界を例にとってその具体例を示したものと理解すれば、武術以外の世界でも広く応用できるのです。

 
2.対立の中に見つけるもの
 

 「活」と「殺」は互いに対立する概念です。それを同時に存在させ、その状態を基に次の次元へと昇華させようという活殺自在の意識には、その方向に導くためのシステムを必要とします。

 この対立を車にたとえてみると分かりやすくなりますが、「活」は進むためのアクセルとなり、「殺」は生命までも含めた動きを制限するブレーキに相当します。車が動くためには、この二つをうまくコントロールしなければなりませんが、それがきちんとできれば生活に有用な存在としての価値を生みます。間違うと凶器になりますので、運転の際にはそうならないようにすることを要求され、そこには細心の注意が払われます。

 アクセルもブレーキも、単体で存在しても意味がなく、お互いがあってはじめて意味を持ちますが、活殺自在の意識も同様であり、単体での存在では十分ではありません。

 車と異なるのは、その不十分さが明確ではなく、単体でもそれなりの存在意義があることです。「殺」は武技として戦いの手段として活用されますし、「活」は癒しとして体調好転の具体的手段となります。

 しかし、活殺自在という概念を得ることで、互いが影響し合うことを知り、そこから上位の概念へと上っていくきっかけとなります。

 武道・武術の場合、極端なケースでは生死に関わるレベルまで考えなくてはなりませんので、そういう意味では究極の段階まで考えるベースとなります。

 人には寿命がありますので、必ず死を迎えます。

 活殺自在の意識にはこの部分まで含まれるわけで、その意味からは自分の生き方そのものへの問いかけへとなり、自分なりの生き方を見つけていくためにも役立つのです。

 
3.「マイナスの心」を殺し、「プラスの心」を活かす
 

 活殺の意識を普段の生活の中に具体的に活かそうという場合、心の問題で考えると実に効果的に活用できます。

 人が何かにチャレンジしようとする時、積極的に進めていこうと思う心と、いろいろなマイナス要因を挙げてブレーキをかけようとする心がぶつかります。前者を「プラスの心」と呼ぶならば、後者は「マイナスの心」です。

 一個人だけでなく、社会という単位で見ても「マイナスの心」が支配していては進歩は見込めません。不況や社会不安の元凶は、全てこういった「マイナスの心」の結果です。だから「プラスの心」の存在を理解し、それが活性化していく方向に進んでいかなくては、人生や社会はますます泥沼化していくばかりです。

 ここに活殺という概念を持ち込んだ時、はっきりと「殺すべき心」と「活かすべき心」の存在が見えてきます。そこに説明は不要だと思いますが、前者は「マイナスの心」であり、後者は「プラスの心」です。前向きに進んでいく心は何時の場合でも必要であり、後退の意識からは何も生まれません。自身の人生をより良いものにしたいと思うなら、「プラスの心」の活かし方というところに焦点を当て、その意識に従って生きていくことが大切です。

 人は有限です。必ず終わりがあります。武道・武術の哲学はこの視点に立って考えますが、活殺の意識とはそれを認識した上でどうすれば人生を良い形で全うできるかという心の問題にまで波及するものなのです。


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